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地方新聞社がネットを使えなかったわけ/武蔵大学松本恭幸ゼミのみなさんからの質問(2)

【質問(2)】インターネットが日本に登場した当初で、日本におけるインターネットの普及がもたらした変化、またどのようなプロセスを踏んで人々に普及していったか。そして、それが地域、地域の新聞社に上手く溶け込むことが出来なかった理由を伺わせてください。

【答え】

地域の新聞社がインターネットに上手く対応できなかった最大の理由は、インターネットへの無理解です。人間は自分の尺度を超えた存在には多かれ少なかれ抵抗を覚えるものですが、新聞社、特に地域に由来する新聞社は、インターネットをわが事にあてはめる姿勢が最初から希薄でした。報道の世界に生き、社会の変化をニュース・情報として広く伝え、提供する仕事に携わっている者たちであるはずなのに、インターネットやデジタルに対する閉鎖的で頑迷な姿勢は一体どうしたことでしょうか。自社の新聞を丁寧に読んでいれば、インターネットの出現によって世界にどんなことが起きてきたか、今後、どんな影響を及ぼしそうなのか、単に抵抗して済む問題なのかどうかぐらい、分かるはずなのですが・・。

多くの日本人にとって、インターネットは米国から入ってきた環境でした。外から入ってくる価値観に対しては、「米国では・・」「英国では・・」と、「出羽の守」になり、先進事例や流行としてベターモデル化したがるのですが、インターネットの場合は最初から抵抗すべきもの、反対すべきものとして受け止められました。

報道者らしくない閉鎖的で頑迷な発想が、まるで初期値のように新聞界に広がったのには理由があります。インターネットが米国から日本に入ってきたタイミングをよく考えてみてください。インターネットが日本に紹介された当時、米国は日本より10年進んでいるとか、5年進んでいるとかよく言われたものです。つまり米国では、日本より5年、10年早くインターネットとの相克が始まりました。

米国の「先進性」ゆえに、日本に入ってきたときは、米国の既存の新聞社の、特に広告部門に対するネット企業(マイクロソフト社など)の「侵略」と、それに対する反発や恐怖心がセットになっていました。当時の米国は確かに現実でしたが、ネット出現以後、新聞社の事業に影響が出るまでに、少なくとも数年を費やしていたはずです。それなのに日本の報道機関がインターネットを紹介しようと思い立った時すでにネットの負の側面がセットになっていたわけです。

日米の時間的なタイミングの差をしっかり認識し、米国の取材を実地にその気になってやれば、既存メディアにとってインターネットがネガティブな意味を持つだけではないことがすぐに分かったはずです。

当時、米国の地域社会や地方新聞社を丹念に取材して回れば、若い世代がインターネット使って情報検索したり、論文を作成したりする光景に接することができたはずです。米国のインターネットは、まだアナログ電話回線を使ってアクセスポイントにダイヤルする環境でしたが、同じ都市内で通話する場合、いくら使っても定額料金でした。

そのため、たとえば非営利組織のオフィスをたずねると、パソコンが机の上に常に立ち上げてあり、必要に応じて何度もインターネットにアクセスしていました。企業に比べて資金力に乏しい非営利組織にとって、インターネットは情報収集や情報発信をサポートしてくれる強力な味方でした。ネット先進地と見られていたサンフランシスコでは、長い間、本を貸出しするだけだった公共図書館がネットを利用した新しい情報サービスをメーンにしはじめていました。何台も置いてあったパソコンの前には、市民が長い行列を作り、有料・無料、さまざまなタイプのデータベースを使っていたのが印象的でした。

ごく簡単に言えば、インターネットが既存メディアだけを狙い撃ちにしたわけではないという事実さえ、日本の多くの新聞関係者にはピンとこなかったようです。インターネットは初めから歓迎すべからざるものとして既存の新聞社の経営陣には受け止められていました。広く米国社会、特に若い世代にフォーカスして取材をすれば、日本の新聞関係者がこぞってネガティブな見方をしたのとは、まるで異なるインターネットの世界が見えたはずです。

取材を本職とする以上、それをしなかったのは怠慢としか言いようがありません。日本の新聞業界が致命的だったのは、もともと横並び主義というか、他社の事例を参考にしながら進む、新聞百年超の悪弊が存在し、大いなる誤解でもある「ネットネガティブ論」を、業界シフト=業界主流の発想に高めてしまった点でした。報道機関としての怠慢、視野の狭さが招いた大失策です。特に編集局の人たちに頑張ってもらいたいと思う最大の理由です。

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