河北新報社でネット分野の仕事に携わりながら「Web日誌」という名のブログを不定期で書いていま した。「Web」は「ウェブ」と読みます。なぜ「Web」は大文字と小文字まじりなのかと、何かの機会に質問されたのを思い出します。先日、必要があって、その内容を振り返ってみました。
「Web日誌」は1997年12月26日から2013年3月12日まで、15年ちょっとにわたって続きました。当時、同じセクションで働いていた同僚にも手伝ってもらいました。写真を除いてテキスト部分だけを概算したところ、合計で100万字を超えました。「駄文を連ねて100万字」。他に仕事はなかったのかと、我ながら驚き、かつあきれます。
「Web日誌」を始めた当時、新聞界ではインターネットの「イ」の字も知らない人が大多数でした。東京には専門家、研究者が何人かいましたが、彼らが気にしていたのはおおむね通信との融合のような領域でした。新聞とインターネットを同時に考えている研究者はごくわずかでした。
自分でも、聞きかじりの知識しかなく、いわゆる「ホームページ」の作り方を市販のテキストを購入して一から覚えました。米国から突然、やってきたインターネットが一体、どんなものなのか。情報を集めては、自分なりに集約し、社内の何人か、特に社業の方向性を決める立場にあるリーダーたちに読んでもらいたいと思って始めたのが「Web日誌」でした。いわば、ごく狭い範囲の同志たちとともに、インターネットについて考えるための材料を提供するつもりのメディアでした。社内周知のためのメディアといってもいいでしょう。
だから、初めからインターネットを批判的に読み解く立場にはあえて立っていません。インターネットが本質的に批判されるべきものであるなら、自分の役割も不要です。さっさと紙の世界に戻るべきでした。幸い、インターネットが提案していた世界観と、それに基づく社会の大変革の行方を考えれば、インターネットを無視しては、新聞も新聞社の将来もあり得ないぐらいのことは直感で分かりました。
新聞記者のなれの果てが書くものとしては、実にぬるい文章が並んでいますが、時系列に追ってみると、インターネットに接したときの驚き、興奮、不安、焦りの気持ちがよく流れています。特に地方新聞社がインターネットとどう向き合っているのかを知るため、機会をとらえてはインターネット発祥の地、米国に向かいました。その都度の報告も「Web日誌」に掲載してあります。当時、時期をほとんど同じくして米国から日本に入ってきた、非営利組織(NPO)が個人的なテーマとなっており、NPOに関する取材・調査と合わせ技にできた点が、個人的な取材旅行を可能にしました。
「Web日誌」は突っ込みどころ満載です。自分で、当時の自分に突っ込みを入れてみると、なぜ、自分と、自分が属する世界がインターネットに翻弄され続けたか。その理由が分かるような気がします。避けようとしても避けられない大変革を前に、その変革の意味を分析する意欲もなければ、力もなかった。当面、力がないのは当たり前なのだから、たとえつらくとも総力を挙げて力をつけるべきなのに、最低限の努力さえ回避してしまったのではないか。
報道価値だけを考えれば、「Web日誌」は、時として核心を避け続けてきた駄文の連なりに見えるかもしれません。「趣味的なコラム」と言ってもおかしくありません。実際、同様のことを同じ業界にすむ人から何度も言われました。それでも、「社内周知メディア」あるいは「趣味のコラム」を延々と追っていると、インターネット草創期以降の15年という、時間の流れを再確認できるようです。新しいメディア環境の下で、地域メディアのありようを考える文脈と自然に重なるのも、何やらうれしいのです。