長いこと新聞社で働いていたのに、自分の身の回りに、インタビューさせてもらいたい人が数多くいることに長い間、気付かなかった。彼ら彼女らは何かテーマを追いかけているときに専門家として裏付けてくれたり、そのテーマにニュース価値があることをセンサーとして保証してくれたりした。頼りになる人たちだった。
それなのに彼ら彼女らこそがバリューであるとはなぜか思わなかった。あまりに身近な人たちであり、友だちについて書くことに戸惑いもあった。確かに知人・友人に登場してもらうには、ある種の覚悟を要するが、それにしても、ニュースバリューを考える物差しが少しくるっていたとしか思えない。いわゆるニュースを育む過程にもっと柔軟性と多様性を持たせ、それにふさわしい表現力や発信力を身に着けることが必要な気がする。
それはデジタルがどうのと言っていられる問題でもない。