デジタルメディア向けのニュース編集と…
地方新聞社育ちなのに、いつの間にかデジタルやネットなしには生きていけなくなりました。コリコリになった頭と肩をほぐすため、友人から届いた小説を読みます。「棄国」する人々の物語らしいです。
河北新報の映画サイト「シネマに包まれ…
齋藤さんのリポートは2001年のカンヌから続いています。ちょうど15年たったことになります。あのころ「新聞社のウェブサイトは新聞に載った記事を垂れ流しているだけ」と悪口を言われたものです。
編集出身としてはそれが悔しくて、可能な範囲で独自のコンテンツをつくりたいと、齋藤さんにお願いして始めました。手前みそながら1998年に細々とスタートさせた「Web日誌」も同じ位置づけでした。
http://blog.kahoku.co.jp/cinema/2016/05/post-252.html
デジタル編集は面白い
ある社から委託されているネットメディアの編集業務が軌道に乗ってきました。ニュースの選択、編集、発信までを一人で担当しています。完全にウェブ編集なので、作業する場所に縛られません。フリーの編集者にとってはありがたいことです。
デジタル系の編集実務は、一連の過程のどこをとっても、新しい手ごたえ=工夫のしどころがあります。新聞の取材・編集部門や新聞社が手掛けるネット部門に併せて40年も携わってきたので、ニュース編集の基本的な流れ、情報の持つ意味や編集過程で発生するさまざまなリスクへの配慮など、必要なポイントは押さえているつもりです。
とは言え、見出しの調整ひとつとっても、興味深いものがあります。その記事の内容を「見出し」の形であれこれこねくり回すよりも、有効な単語をひとつデンと置く方がよほど効果的な場合があります。
新聞記事の編集ルールが通用しないことも多々、あります。もともと、新聞記事をそのままウェブで読んでもらうには、全体として硬いテーマ、硬い文章が多すぎます。だからと言って、料理や娯楽などのお楽しみ系のコンテンツが、ネット界隈を埋め尽くしていいものでもありません。
「こんなに長かったら誰も読まないよ」
「もう少し長くてもいいからコクのある文章を読みたい」
ネットメディアの編集では、文章の長さがよく問題になります。が、読みごたえのある記事に長短の別はないようです。仮に、ある記事が長すぎると感じるとしたら、それは品質に問題があると考えた方がいいでしょう。
もう一点、デジタルメディアならではの編集実務に、記事の一つひとつに関連情報を付加する作業があります。実際にやってみると、これが非常に面白い。担当者として、面白がっているだけでなく、ひょっとしたら、利用者にも楽しんでもらえるサービスとして開発できるのではないかと思うのです。
ニュース記事を選択後、検索機能を使って、関連情報を丁寧に集めます。検索エンジンの出来によって関連情報の集まり具合は当然、異なるでしょう。検索対象とするコンテンツをどの範囲で定義するかによっても、違いが出てきます。
ブログが登場したばかりのころ、自分が書いた文章を推敲しながら主な言葉にリンクをはるのが楽しくて仕方がなかったのを思い出します。いつの間にか、リンクだらけのブログが出来上がっていました。リンク情報があまりに多いと、その先のコンテンツをたどるのが忙しくて、本文の読解が進みません。
それでも、広大なネット空間を意識しながら関連付ける情報を探し、選択するのが楽しく、「これは文章を読むという行為が大きく変わろうとする現場に立ち会っているのに違いない」と妄想を楽しんだものです。
「メディアプロジェクト仙台」のブログ…
http://www.media-project-sendai.com/?p=921
久しぶりに刺激的な米国モデル。地域と…
ことし3月、宮城県多賀城市にできた…
公立図書館のあり方を考える上で貴重な事例ではあるけれども、都市づくり全般における施設全体の位置づけなど、もっと広い視野に立って議論されるべきです。館内と、併設されている商業ゾーンをのんびり歩き、3階のレストランで食事しました。オフなので取材活動には入らず、贅沢な時間を過ごしました。何事も自分の足と目と耳を使って確かめないと、分からないことが多いものです。
あらためてリテラシー
熊本県や大分県を中心に起きている大地震の様子が刻々とさまざまなメディアを通じて流れてきます。悪意や偏見に基づく情報や、「キュレーション」の名で行われる確認不足のままの拡散をどう見分ければいいのでしょう。ソーシャルメディアの構造自体にも問題は潜んでいそうです。とりあえず、自分からの発信を控え、ソーシャルメディアを通じて大量に目にする情報を批判的に読みながら、その信頼性をあらためて確認する作業を続けています。そのチェックに耐えられた情報だけをクリッピングするうちに、何かが見えてくることを期待しながら・・。
熊本・大分などの地震は、最初の印象とは異なり、新しいタイプの災害の様相を強めてきました。正直に言えば、最初のうちは、5年前の経験を通してながめる気分でした。しかし、その後の展開を見ていると、ひょっとしたらあの経験は通用しないのではないかとさえ思います。
そんな中で、インターネットで個人的につながっている人々の体験が直接に伝わってくるケースがあります。ソーシャルメディアが普及する前から、長い時間をかけて、少しずつ互いに確認し合った関係です。
テレビやソーシャルメディアによる情報の拡散を目にする感じとはかなり異なります。情報に接したときの感触が違います。目と目を合わせながら言葉の一つひとつを確認するようなニュアンスです。お名前は分かるけれども、一度もお会いしたことのない人が相手ではないし、やたらと言葉は多いけれども、どこのどなたであるか分からない人でもありません。単なる根拠の孫引きの繰り返しでもないのです。
もちろん、少しずつ互いに確認し合った関係に基づく場合でも、間違いや勘違いを含みます。間違いや勘違いに気付いたときに、冷静な意思疎通の中で互いに修復を試みることができる点が一層、重要です。
インターネットを仕事にして以来、「双方向性」の可能性や魅力を重要なポイントとして考えてきましたが、いつの間にか、騒々しくて、過剰な、時には当てにならない情報の拡散を「双方向性」を達成するための重要な要素と勘違いしてしまったかもしれません。ちょっと憂鬱です。